この超巨大災害から始まる学問の進歩に参加してみないか
田村 俊和 | 立正大学 地球環境科学部 環境システム学科 |
■災害の経験は学問の進歩を導いてきた
夜になり、風と雨で窓がガタガタしていた。疎開(そかい)先からだいじに持ってきた古ぼけたラジオから「タイフー」「ボーフー(ウ)」という不気味な言葉が繰り返し聞こえた。「タイフーとボーフーはどう違うの?」と母に尋ね、「だいたい同じ」という、ややいい加減な答を聞きながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。翌日のことは覚えていない。数日後、朝からおとなたちは大騒ぎをしていた。水道が出ないのだ。少し離れたところにある工場がモーターポンプで地下水を汲み上げていたので、皆そこで水をもらい、バケツで運んでいるのだった(ポリタンクなんてまだなかった)。子どもにはお祭り騒ぎに見え、私も水運びをしてみたくなった。小さなヤカンを持っておとなについて行き、蛇口から水をいっぱい汲んで、得意になって戻る途中、転んで全部こぼしてしまい、泣きながら帰った。
ずいぶん後になり、これがあのカスリーン台風だったことに気づいた。1947年9月15日から16日にかけて、利根川・荒川上流の山地に大雨が降り、16日0時25分に埼玉県東村(現在は加須市)新川通の利根川右岸堤防が決壊した。あふれ出た水は、江戸時代の初めに付け替えられる前の利根川の流路に沿った、幅10km内外の埼玉県東部低地に広がる田畑や集落(今は都市化が進み、当時の何倍もの人が住んでいる)を次つぎとのみ込んで東京都に入り、江戸川区船堀付近まで延々60kmほどを5日間かけて悠々と流れ下った。19日未明には葛飾区の金町浄水場が浸水・機能停止したので、私が住んでいた荒川区尾久あたりも断水となったのだ。最後は、堤防を爆破して江戸川に排水したという。
この利根川大氾濫(はんらん)のようすは、衛星画像も空中写真もなく、敗戦2年後で世の中全体がとても貧しかった当時としては、実によく調べられている。全域を手分けして歩き回り、氾濫水が動いて、浸水域が広がり、縮小していったようすを、丹念な観察・聞き取りで調べ、地図に記録・整理して、地形学的な解釈を加えた。そして、災害発生から2か月半後には、印刷経費が足りない中で、そのころとしてはぜいたくなカラー印刷の地図5枚と、質素な謄写版(とうしゃばん)刷りの報告書を公表している。調査の中心となったのは、当時の内務省地理調査所(国土交通省国土地理院の前身)の若手スタッフで、後に高名な地理学者・地形学者になった人たちも含まれている。満4歳だった私は、もちろん何も知らなかったが。
この成果を、後に空中写真から判読できる細かい地形の特徴とあわせてみると、平野の地形の成り立ちと洪水・氾濫との密接な関係が実によくわかるようになった。こうして、カスリーン台風による水害とその調査の経験は、平野の地形学を大きく進歩させ、水害防止・軽減をめざした地図情報の整備にも生かされた。洪水ハザードマップもその延長上にある。同じ台風の大雨で、赤城山では多数の山くずれ・土石流が発生し、その詳しい調査から、斜面の地形学や土砂災害に関する重要な知見が得られた。
■異常な経験も生かして新しい発想を出すのが学問という仕事
この水害と今回の地震・津波災害とは、災害のメカニズムや規模、社会の状況だけでなく、観察・観測や情報伝達・解析の手段も、まったく異なる。一方で、現地をコツコツと歩き実態をたどる調査が、今回も着実に行われている。どの研究者も、今までの経験や理論をもとに何らかの仮説を立てて現場や観測記録に臨み、仮説の一部を実証しつつ、それをくつがえす事実にも直面して、頭をひねり、新たなアイディアを生み出そうと奮闘している。この試行錯誤による思考過程は、今までのいろいろな自然災害の研究と、それに限らずどんな学問でも、本質的に同じだ。こうして得られる成果のうちには、当面の救援や復興にすぐ役立つものから、今はただ知識として蓄積されるだけのものまで、いろいろあろう。それらの知見を組み合わせてどのように生かすかは、社会のそれぞれの場にいる人びと(あなたも含む)の認識・判断と行動にかかっている。正しい認識・判断の前提には的確な情報と知識が必要で、それを支えるのが地道な研究と学習だ。
私が地形学を専門とするようになったのは、別に幼時のささやかな体験のせいではない。でも、今回の災害のことは、言葉であらわせないほど強烈な体験をした人も、幸いたいした被害を受けなかった人も、しっかりと記憶し、経験として生かしてほしい。この超巨大災害が、カスリーン台風水害が地形学にもたらしたものとはくらべものにならないほどの、大きな学問的進歩の出発点となることは間違いなく、それをおし進めるには、今進路を決めようとしている若者たちの参加が欠かせない。ぼんやりしているのはもったいないではないか。
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