大震災を経験して、あなたたちは自分が苦しんでいる時、その苦しみを共に苦しんでくれる人がいることに何か救われた気分がしたに違いない。あなたの苦しみを共に苦しむ人、それはあなたを愛する人の他ではない。人は愛する人によって救われる。あるいはあなたたちは再び活き活きする時が必ず来るという望み、復活の未来が必ず到来するという希望に何とか支えられているに違いない。何ものかの到来への希望があなたを支えている。人は希望なしに生きることはできない。
あなたたちの苦しみを共に苦しむ愛、何ものかの到来へのあなたたちの希望、愛と希望、この二つのことが、僕の研究している神学分けてもキリスト教神学の全てである。神学はわたしたちの苦しみを共に苦しむ神の愛、その神の到来へのわたしたちの希望、神の愛と神への希望を対象とする学問である。人が生きて行くのに愛と希望は不可欠である。神学はそれを神の愛と神への希望と考えてみるのである。
しかし神は無限の能力を有する永遠の存在ではなかったか。その神が人の苦しみを共に苦しんだり、この世界に到来したりすることがありうるだろうか。何故なら人が苦しむのは人が能力的にも時間的にも限界を有するからであり、この世界はどんなに大きくとも有限だからである。無限の神が同時に限界を有す、有限でありうるか。
日常言語で考えれば、無限であると同時に有限であることは単なる論理矛盾である。学問は論理矛盾を許さない。それでは神はわたしたちの苦しみを共に苦しまないし、わたしたちのこの世界に到来しないのか。神がわたしたちを愛さず、わたしたちの希望でもないのならば神学はいらない。ところが日常言語を離れて数学言語分けても位相幾何学の言語で考えれば、神が無限であると同時に限界を有することに何の矛盾もないのである。この先は大学で勉強しよう。