言葉は時に無力で空疎、されど人間を立て直すのも「言葉」

紅野 謙介   日本大学 文理学部 国文学科
日本近代文学 /研究領域:出版、メディア、文化研究 ]

今回の震災・津波のあと、人々はしばらくのあいだ言葉を失ったような体験をしました。目の前で起きた出来事が、たしかにさまざまなパニック映画や世界各地での災害映像やCG映像に「似ている」とは感じたものの、「似て非なるもの」であることを決定的に感じ取り、簡単に「~のようだ」と口にすることすらはばかられるほどでした。虚構と現実の埋めがたい差異を身体で確信していたからでしょう。被害に遭(あ)った人も、直接には遭わなかった人も、どんな言葉を使ってもウソに聞こえてしまうし、慰めの言葉にすらならない、いかに言葉は無力かを知ってしまいました。この一定期間の心理的な引きこもり状態のあと、安全地帯にいた人から順に、今度はむやみに語りはじめ、3月11日はどこにいたか、どのような体験をしたかを口々に話すようになったのです。差異を埋められないのであれば、とにかくたくさんの言葉をはき出すしかないではないか、とでもいうように。

あれからおよそ2ヶ月。人々は鬱(うつ)から躁(そう)状態に代わり、言葉はさらに罵詈雑言(ばりぞうごん)へと変わっていきます。その対象は、首相や政府与党、原発事故を起こした東京電力や経産省や保安院、原子力安全委員会、科学者たちに向けられ、人々の負のエネルギーをはらすことになっています。関東大震災のとき、自警団を組織した民間人が社会主義者や朝鮮の人々をたくさん虐殺(ぎゃくさつ)しました。そのようなことは今回なかったけれども、言葉への不信とその安売りについて見れば、今回の対応も大差ないと言わざるを得ません。わたしたちの心の奥に引っ込んでしまったあの感情、どのように人に声をかけたらいいのか、言葉を探る懸命な思いは、いまや次第に忘れ去られようとしています。

しかし、被災地の方たち、被害に遭われた方たちはそう簡単に忘れることはできないでしょう。飛び交う空疎な言葉とはべつに、自分の思いを見極め、人との関係を探り、立て直す言葉をとり戻すこと。課題はそこにあります。近代文学が蓄積してきたものもそれです。集団の熱狂に違和感を覚えたものたちが、苦悩と葛藤(かっとう)のなかから文学の言葉を生み出してきました。その蓄積を有効に生かしていくことがこれからますます重要になっていくと考えます。

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こうの・けんすけ/1956年東京都生まれ。
近代文学はこの社会を組み立てている言語、文化、イデオロギーと緊密に結びついています。そのなかで規定されながら、たえずその規定を乗り越えようと悪戦苦闘してきたのが近代文学の歴史です。とりわけ活字メディアなど文学の物理的な環境との関係を分析することで、日本の近代文学から見える文化史の構築を目指しています。主な著書に『書物の近代』(ちくま学芸文庫)、『投機としての文学』(新曜社)、『検閲と文学 1920年代の攻防』(河出書房新社)など。

被災された生徒・先生方へ

被災の規模も程度も千差万別で、ひとくくりにできません。ただ家族や地域とともに、学校が大事な人間関係の場であることをあらためて痛切に感じたのが今回でした。さまざまな苦痛、口惜しさを抱えておられると思いますが、そこから芽吹くものが人間や文化についての新しい考えにつながっていくことを期待しています。

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